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偏差値が高くても決定的に不足しているスキルと大人ができること

偏差値教育が批判された結果のゆとり教育だったが、偏差値が意味を消失したわけではありません。偏差値は真面目に社会(学校や家庭)からの要求に答えてきた結果のはずです。

偏差値教育が無効だといくら叫んでみても、国家資格など高い学習能力が求められる分野はいくらでもありますし、それらの分野で偏差値を不要にする試みは危険でしょう。

もっとも偏差値に対する信頼が問題を生み出すのも事実であって、自分たちが偏差値の頂点に分類されるという確信が道を誤らせた事件が相次いだのは悲しい限りです。

このような誤った確信は事件を生み出すまで極端化しなくても、彼ら自身にとても困難な将来を強いることになる要因を含み持っています。

支援者は少なくとも自分以上の能力を持っているべきです。そうでなければ、自分は単なるお山のボス猿のように自分以外の何にも期待できない組織を作ることになってしまうでしょう。

つまり組織の中では周囲の支援者の中で自分が一番未熟であり、最も後進だということになります。少なくともそういう自己認識が求められます。

このように考えると彼ら、高学歴の人たちが持っている自己認識と必要な認識とに大きな差が生じていることがわかります。援助を求めたいが、周囲に頼れる人などいないと考えてしまうわけです。

偏差値が高い学生は孤立せざるを得ないのが彼ら自身の現実です。高学歴者が会社などに就職して社会に出た途端、周囲とのあつれきで孤立してしまう例は多いのも頷けます。

高偏差値を獲得した副作用が表面化したと考えられます。無論、偏差値で計測される能力は、生きていく上で必要な能力の一部に過ぎないですが、それについて沈黙してきたのではないでしょうか。

人の立場で考える力は偏差値では測りきれなかったひとつです。国語教育で芸術文学に触れて、多少は感情の学習をしてもパターンは限られています。勉強すれば、パターンに即した用語を学習することはできますが、体感と結びつくかは偏差値に表れません。

様々な感情を経験する必要が前提にあります。しかし、子どもの頃から一人で遊ぶことに慣れているという意味では、対人して感情を経験する機会が極めて限られていたことになります。

高い偏差値を誇る大学生でも、同様の傾向は強く見られます。言葉は上手に当てられても、実感をまったく伴わない表情を見せる学生が多いのです。そして彼らは同じキャンパス内でも周囲とさまざまに問題を生じて孤立化する傾向が見られます。

ただ全ての学生がそのような体験の問題に無関心ではありません。逆に自分に不足している部分に敏感に反応する学生もまたいます。そのような学生たちを観察していると偏差値が高いと、経験的知識に対して敬意を持てる傾向があるようです。

人間同士の関係を潤滑に維持しつづけるのも能力のひとつであり、知らない分野を誰かに助けてもらうのも能力のひとつでしょう。これらはむしろ人間として無意識に前提されてきた能力ですが、これからは明確に学習する必要があるのではないでしょぅか。

様々な感情体験がこれからの彼らにとって課題になります。しかし、彼らだけが自力で身につけられるはずはありません。そもそもが対人する経験の中で蓄積されるべき性質の知識だからです。

感情体験を主体的に受容して理解するためには他者の目が必要です。そうでなくてはただ、辛かった、嬉しかったで終わってしまう結果になりかねません。小さな体験からできるだけ多くを学ぶ効率的な学習が必要だからです。

日常的な細やかな感情体験で練習を積むのが効果的ですから、日常的に彼らに中高年が関わることが実はとても効果が上がる秘策といえるでしょう。

若者が密かに求めている大人像がこれだ。冗談メンターの役割り

子どもたちの親が担っている家庭教育には社会生活の基盤を作るという重大な役割があります。この基盤が上手にできていると子どもたちは社会に出てからも、安定した社会生活を営めます。

社会に出てから、あるいは社会に出るために予行演習的に大人たちと接したときに彼ら、子どもたちの社会的な調整能力の欠如が目立つようになってきました。挨拶ができなかったり、あからさまにすねたりするといいます。

問題点を指摘した途端、その場からいなくなったり、かつての社会では想像できなかったというような現象が起こります。それに対面するとどうすれば良いかと指導に困ってしまうのです。

調整できないのは彼らの成長過程や成長環境に中高年時代とは違いがあるからだと考えられます。

成長に伴って子どもたちは家庭から社会に接近します。すると両親が提供してきたもののズレに気づきますが、本来は親の周辺にいる大人たちの支援によって、調整できていました。

父親の兄弟が同居していたり、祖父母が同居していたりして、両親の言葉や態度を補って解説してくれたり、叱られた時の逃げ場所を提供してくれたりしました。それによって両親からの教育が一定の余裕を持つことになり、子どもたちは調整能力を身に付けました。

このように子どもたちにとって深刻な状況を緩和する機能を担った関係を「冗談関係」と呼びます。核家族によって親族内に冗談関係が失われました。

ただ核家族によって冗談関係が失われたというのは短絡的かも知れません。核家族化だけが犯人ではないからです。都会化した地域では地域的な冗談関係を維持できなくなっています。

様々な理由で流入する人口は地域的に信頼関係を形成するために時間が必要ですから、一時的に地域内で孤立した状況になります。孤立している期間内に転居すると、孤立状態が恒常的なものになります。これは都市空間が抱えている問題です。

いずれにせよ冗談関係がないため両親による家庭教育は機能不全になっています。遊びのないハンドルを握っているような状態ですから、厳しい教育も緩い教育も極端化する傾向にあります。

つまり冗談関係の位置から、規範の調整をすれば良いわけです。子どもの両親と同世代として両親の言葉や態度を補う理解を提供できれば問題に対処できるでしょう。

中高年は子どもたちの両親とほぼ同世代ですから、子どもたちと冗談関係になる素地を持っています。このような存在が「冗談メンター」として子どもの精神的・社会的な成長を支援できればと思います。

冗談メンターとは冗談関係を形成しているメンター、つまりは指導者を意味します。公的な教育での関わりでは、子どもたちにとって深刻すぎます。子どもたちに対して何程かの権力を持っているからです。

一方、冗談関係にある指導者、冗談メンターは子どもたちに対する権力を持ちません。ですから子どもたちはプレッシャーを感じずに接することができるというメリットが生まれます。

子どもたちは、両親の問題行動を相談されたことがあります。親に対して批判的な考えを持つだけ成長しているのですが、問題を受容できる理解に至っていないのです。

彼は、メンターに一生懸命事態を説明し、自分の主張を繰り返しながら、自分の視点と親のあり方とを整理して、穏健な理解を獲得できました。

冗談メンターの社会的な役割は重要です。何の権力もなく、子どもたちに振り回されそうになることもある立場ですが、大変重要な役割だと思います。

しかし、子どもたちからは彼らの両親に匹敵するほどの信頼が必要だろうと思います。それにふさわしい人格と技能とを求めていかなければなりません。

国際化・多様性に対抗するため!中高年がリーダを務めるべき

都会の町中に限らず、田舎の道ですら外国から来ている人たちとすれ違う時代です。日本だから日本のことだけを考えていれば、良いという時代ではなくなりました。

電車の中では外国語で話ししている若者たちを見かける機会に何度か遭遇して、時代の変化を実感しました。外国はもはや外国ではなく、日本の一部になりつつあるのかもと、感慨を覚えました。

一般に中高年は国際化に強くないという見識が多数あるようですが、それは本当でしょうか?もしそれが本当であるなら、今の時代に中高年が活躍できる分野が限られてくるかも知れません。

高齢者になるほど外国語の習得が難しいと考えられています。しかし、それはいつの時代のことでしょうか。戦後、継続的に日本では外国語教育がありました。外国語教育を受けていない昔の日本人ではありません。

実際にやってみれば、外国語の習得は継続性が必要で孤独な作業がほとんどです。一気に習得できる外国語などありませんし、言語の習得は他の分野よりも訓練期間が必要です。

むしろ孤独な学習を継続するための根気は中高年の特徴的能力でしょう。そのため街の外国語教室を訪問すれば、中高年の男女が机を囲んで学習している様子が見られます。

また必要に迫られた時に力を発揮してきたのは中高年世代の経歴として忘れてはいけません。高度経済成長は日々がストレスとの戦いでした。長期にわたるストレスに強いという性質を宿しているといえます。

このように整理すれば、国際化のストレスに対抗して道を拓く力があるのはむしろ中高年世代だといえそうです。ストレスは外国語にだけあるのではありません。国際化に伴う多様化も大きなストレスを生み出します。

多様化とは価値観の複雑化を意味します。ひとつの地域の中に多種多様な価値観を持つ人達が雑居するような状況なのです。その状況にはだれかの思い通りに決定できる要素はありません。

多様性の尊重は相手をただ優先するだけでは困ります。全体のメリットになるので、私たちは相手を優先するかもしれませんが、相手はそうとは限らないのです。

単純に相手の立場を優先して、すべてを譲ってしまうのは置き換えになってしまい、日本が日本ではなくなってしまう危険があるでしょう。

ですから対立する価値を認めるには自分の価値観をしっかりと持っている必要がありますが、若者に「自分の価値観」を要求するのには無理があります。価値観を確立するためには経験が必要だからです。

善悪を別にして年長者ともなれば、十分な経験から価値観を堅持しているはずです。これが多様性の調停に役立ちます。他者との交渉で自分の立場をしっかりと弁えているべきだからです。

自分の立場をしっかりと弁えてこそ、相手と対等の立場に立てるからです。つまり自分を確立して他者と対等の立場に立てるのは中高年です。

国際化とそれに伴う多様性に対抗するために必要とされる資質を中高年の世代は獲得しています。特に時間が必要になる経験的な知識は中高年のものです。

中高年が引退を決め込むのはまだまだ早すぎるでしょう。むしろ若い世代をリードして多様性を備えたより良い日本を求めるには、中高年の活躍が必要です。

中高年が自分の価値観を整理して再確認する作業は有益です。整理して再確認することで、自分を客観視すれば新たな発見があるに違いありません。これは自分自身をさらに高めることに繋がります。

この際、若者たちが支援してくれることは確かです。彼らは自分の人生の予備練習として参加してくれる気持ちを持っています。ですから彼らに自分の価値観を説明すれば、さらに客観的に見つめ直すことになり、評価を高めることが可能です。

従来の社会的枠組みは時代遅れ!でもそれに代わる枠組みは未完成

制度内で対応しきれない問題が増えてきたといえませんか。新聞の社会面を埋める事件の数々は、従来の制度からはみ出した出来事が既存の方法で対処できなくなった結果であるように思えて心が痛みます。

戦後日本の政策が関係しているとすれば、中でも文化多様化が大きく影響しているといえそうです。日本各地に点在している難民受け入れ地域は学校で、一緒に学ぶ子どもたちが持つ個人的背景を日本人の想像力の外にまで拡大しています。

日本の教育制度は外国の文化を持った子どもたちの教育を前提にしていないですし、私たちの街づくりのコンセプトも異なる文化を前提にして構想するのが困難です。

様々に入り組んだ状況によって問題の種類と数が増えてしまいました。状況ごとに問題を発生するため、単純に類型を見出すことができないばかりか、同時に起こる予想外の出来事の数も増えています。

地域で対応するにも無理が来ています。かつては地域の問題でしたが、今やひとつの地域で対応することは困難です。町内会は機能せず、むしろ地域や時間コンテキストを無視したように行動する地域エゴをむき出しにしだしたように見えます。

建売住宅の購入者が我が物顔で地域の開発に強固に反対し続けて、対立者の損失は意に介さないのであれば、それは単に地域エゴと呼ぶべき主張に成り果てます。実際、近所のあちこちでそのような闘争めいた活動が行われています。

一人一人の活動範囲が拡大した結果だという指摘もあり、文化の発展にともなう副作用として理解する専門家もいます。かつては自分で歩ける範囲で活動していたのが、自動車や鉄道網によって地域性が拡大して問題を複雑化しているというわけです。

確かに隣国では地下鉄の駅構内でさまざまな方言を聞くことができて、同じ言葉と言いながらお互いに通じないほどの違いを感じることができるほどです。

地域性が維持できないことは、活動範囲の拡大によってもたらされたとしても、その結果は予想を越えています。私たちが互いに異なっているのは、言葉の問題だけではないからです。

問題範囲は価値判断や折衝の方法、優先順位などにまで及びます。これらは文化的な考え方そのものですから、当事者同士で解決するのにも時間が必要でしょう。問題は複雑しているのです。

受益者と提供者との関係が複雑になったことも大きな問題の素地になっています。受益者がどの程度の負担をすべきかを問わなければならない事態など、かつての日本で聞かれたことはあるでしょうか。

自然災害や人為事故など様々な局面で受益者と提供者との区別が困難になった事態を見出せるようになりました。負担が問題になるのは少なくとも提供者に余裕がなくなっている状況を示唆しています。

個人に余裕がなければ、何か社会的事業を企てても協力者は増えません。さらに既存の団体動詞での協同が難しいという事態も経験しました。いくつも既存の団体がありながら互いに造反しているのです。このような現象も調停する方法が見出されていません。

状況を見る限り、制度を含む社会に既存の何かに期待するのは難しいでしょう。次世代の中心になる青年たちにこのまま受け渡してもよいものか。社会がほころびたまま、次世代に渡すべきでないのは明らかです。

問題に当たるには、それなりに結集する力と共通した文化が必要でしょう。それが現代の中高年です。私たちが個人負担でできる範囲の小さい活動がギャップを埋める可能性を持ちます。

大きな制度を持つ社会的枠組みから溢れるようにして出てきている小さな問題の数々に対して、小さな問題を扱う小さな集団という対策が有効です。ただ私たちが始めれば良いのです。

薄弱な父親を作り出したのが原因か?マザコンとの付き合い方指南

強かった父親というイメージがあります。かつて家の中で一番偉いとされた父親はもう日本には存在しないと言われます。本当にそうでしょうか?

確かに核家族といえば、真っ先に想像するのは一人寂しく夕食を摂る子どもか、あるいは母親と食事している子どもという印象が素直に連想できそうです。

子どもの立場で考えれば、母親と過ごす時間が圧倒的に長いので、父親像が貧しく成長しないと説明されれば、納得できるところもあります。

しかし、仕事で忙しく家庭の中に父親がいないことが多いという状況は現在の特徴ではありません。昔から日本の家庭では普遍的に見られた状況のはずです。

変化したのは、核家族化した点でしょう。つまり父親の話題が少なくなったということです。実際、物理的な存在として父親を意識するよりは、存在を前提とした話題が昔からあったという方が自然な気がします。

祖母や祖父が語る父親の逸話を聞きながら食事をしていた記憶があります。親戚のおじさんやおばさんが父親の話題をしている中に混ざって聞いていたように覚えているのは少数ではないでしょう。

核家族化によってそのように語られる父親が家庭内にいなくなったといえばかなり現状を理解することができます。そして逆の現象もまた説明できるようになります。それは父親に対する憧憬です。

憧憬が強くなることで存在しており、かつての父親像はなくなっていません。だからこそ初等教育の現場に父親を巻き込もうとする力も強まっているのであり、父親を求める気持ちが様々に表れてきているのです。

自分と周囲とを区別するものとしての規範性は父親像に託されたイメージのひとつです。周囲がどうであれ大切にすべきものをしっかりと見る眼差しは父親にふさわしいと感じます。

その感覚には論理的な世界が前提されていて、父親は何かを語るときに感情ではなく論理的に説明し、問題に対して論理的に対処するという期待があるでしょう。

また倫理的な懐の深さと自分自身に対する厳しさとが同時に成立している人間的な大きさや力を感じたいのも、母親にではなく父親に対する期待です。

現代的な問題の典型である長期単身赴任の父親は憧憬を強めましたが、同時に子どもにとって母親の存在が重要になりました。母親が語る父親が子どもの父親像を形作っているといえるのではないでしょうか。

結果としての父親像の不在はありますが、その分の期待があるべき父親の姿をいびつな形に大きくしてしまっているのです。しかし父親像の充足は必要なままであり、語られる父親像は実体がないまま空虚に浮遊しています。

男の子が求める父親像も女の子が求める父親像も裏腹です。男の子が大人になるために空虚な父親像に自分を当てはめようとし、女の子は同じ父親像を求めているように見えます。

父親像の空虚に気づいた時、男の子は男性になることを放棄しても仕方ないでしょうし、女の子は失望して母親との同一化を目指すようになるでしょう。サークルの中を見回すと、このような青年が見受けられます。

血縁的父親でなくても父親像は提供できる事実は重要です。彼らはどのように考えていようと、理想化した父親像は空虚なまま浮遊しており、彼らは実体を求め続けているからです。

彼ら青年たちが父親世代と接触した時にまず、求めるのは父親像との近接性です。理想の父親からの距離を測られているといえます。私たちが感じる居心地の悪さはその行為に起因しています。

彼らにとって親と同じ世代として関わるのですから、彼らの親としてのイメージを意識すれば、彼らの擬似的な親として接することで彼らと親密に信頼関係を築いていくことができるのです。

将来何をすれば良いのかわからないという相談が季節の定番です

春に入学が決まって、サークルにやってくる新入生たちは興奮状態にあります。新卒として就職する青年たちもおそらく同じように軽い興奮状態にあるでしょう。

人生の節目として周囲が祝福し、本人も何かに対する達成感に満ちている時期ですから、ある種の興奮状態にあるのも仕方がないでしょうし、当初受けるプレッシャーに対抗する力ともなります。

残念ながら一定の期間を経てその効力が失われます。興奮状態が冷める梅雨の前後にはみんながウツになりやすい状態になっています。

経験する最初の梅雨は学生にとって環境に慣れてくる時期ですが、疲れのピークであり、初めての試験の季節であり、また湿気が気持ちを押しつぶす時期です。

そのような状態は新入社員にとっても同じで、おそらく時代を通じて同じ経験をしてきたはずです。思い出せば確かにあの頃は…といった記憶が私たちの奥底に横たわっているのではないでしょうか。

自分の状況が静かに落ち着いて見えだしてくると、なんとなくモヤモヤした気持ちになって、将来のことがあれこれと心配になってくるのは生理現象かもしれません。

梅雨の時期になるとこの種の相談が増えます。キャンパスに解説された相談室にも同じような悩みを抱えた学生でいっぱいになるといいます。

定番の相談だからあらかじめ準備しておきたい相談のひとつに違いありません。みんなが経験する気分だからといって油断していると、深刻な事態を招きかねないのは現代的な若者の反応パターンとして注意を必要とします。

将来設計どおりに人生は進まないのが当たり前というのが、私たち経験者が持っている共通の答えでしょう。だからといって、この答えを押し付けても、良い反応は期待できません。

個人的に使用する道具があります。それはコーヒとチョコレートです。この2つは効率よくカフェインを摂取することが可能で、テアニンというリラックス物質が含まれているので、気持ちが疲れた人を穏やかにする効果が高いのです。

学生から相談があれば、近くの喫茶店に入ります。できるだけ落ち着いた喫茶店を選びましょう。そして男性には少し上等なコーヒを選び、女性ならチョコレートケーキを添えます。

喫茶店がありがたいという感覚に気付かされる瞬間です。店員がそれなりに応接してくれますから、相談者をおいたままにして店員と少し世間話をします。そうすることによって、対話のトーンを相談者に提示しているわけです。

さて、彼らの話を聞きながらも私たちはしっかりと焦点を保つ必要があります。つまり彼らの話に流されてしまっては、一緒に疲れた気分を味わうだけの結果に終わってしまうからです。

質問は単純なものです。何をしていてそのように感じたかを明確にしていくだけです。そうすることによってカウンセリングの基本技術を応用します。専門的には、外化といって自分の経験を他人事のように感じるようになる手法です。

将来に対する不安は社会に対するイマジネーションの貧困に起因します。具体的なイメージを作り出せないと、楽しみを予感することもできなくなり、将来は魅力を失い、現在の目標を見失います。

あるいは人間を単純化しすぎて、バリエーションを楽しんで受容できない気持ちになっている場合もあります。あの人もこの人も同じに見えて色彩を失っているのです。

このような相談者は周囲の人間と自分との比較が単純な視点で完結している特徴がありますので、視点の単純さを補うように誘導します。

様々に見える悩みが世代内で共通しているのは、興味深く思いますが、いずれにせよ悩みに振り回されるのは肉体的な疲労が隠されていますので、休息が何よりも大切なのでした。

黙って見てられない!危なっかしい友人をどうやって助ければ?

親の庇護下にある間に十分な準備を整えて、独り立ちできるようになれば、理想的な成長だと言えます。しかし十分な準備のために必要を提供することができないこともあり、青年の成長は早すぎたり遅かったり様々な状態を経験します。

本来であれば、両親を中心にした家族がさまざまな支援を青年たちに提供していたはずですが、現在は核家族化が進んでしまい、両親も自分たちのことで手一杯という状況も当たり前に見られます。

そのような時代だからこそ、多少おせっかいな年長者に登場する舞台に光も当てられるかもしれません。そして家族構成が変化しても友人の間違いを黙ってみていられないというおせっかいな気持ちを強く持つ若者もまたいるのですが、こちらは生まれつきの性質でしょう。

ただ友人を助けようとするのはまじめなで優秀な青年に見られる傾向です。自分のことだけで精一杯のはずですが、周囲の様子にも目配せができているという意味で、余裕を生み出すだけの優秀さをもっており、また友人を見捨てないという思いはまじめさから出ているのでしょう。

まじめな青年だからこそ、年長者の意見を求め、なんとか問題を打開しようとするのであり、年長者としては関わることは難しくありません。

彼の話を聞きますが、何も提示しないように気を付けました。彼は答えのみを求めているかもしれないからです。症状も知らずに薬を服用するような失敗をさせるような危険がそこにはあります。

何度も話を聞いて、質問の応答を重ねて明らかになってきたのは、彼の本当の疑問は友人を助ける方法ではなかったのです。友人を支配することと支援することの違いは何かということでした。

自分のやり方を提示して、相手が自分のやり方から提示されたやり方に変更した時、問題は解決しても彼が支配しているのと同じことになるのではないか。青年には回りくどい疑問もあります。

その時に彼に提供していた方法をそのまま彼に伝えることにしました。つまり答えを提示して助けるのではなく、意見を聞いて質問して考えることを支援する関わり方です。

他人のことに関わりすぎないで、放っておきなさい、というのはひとつの答えであって解決策ですが、それは彼自身の判斷ではない以上、彼を支配することになります。

他人のことに関わらないというのは、大人の知恵ですが、それをそのまま提示するのは、公式を使って出た答えを教えることに似ているでしょう。せめて公式を使って自分で計算させるべきだと思うのです。

私が助けようと主体として関わって助けるのではなく、周辺で立ち止まり、提案を繰り返すことで、助けを必要とする人が自分で方法と出会うならば、助けるのではなく「助かる」結果になるはずです。

助けることと支援することとは主体が誰にあるかが違います。助けるのは援助者に主体がありますが、支援は援助者に主体はありません。何も決定しませんし、自分から行動もしないからです。

もちろん何かの行動を求められれば、それには応じます。しかし、気を回して相手の必要に先んじることをしないようにすることで、助けを求める人が主体にならざるを得ないのです。

年長者である中高年はほとんどの問題に対して妥当する答えを既に持ち合わせています。だからといってその答えを単に提示するのは彼らを支配しようとすることと同義になってしまいます。

彼らは自分の考え方が不十分であることを承知しています。しかし、様々に体験する問題は自分の考え方が通用するのかを確認するための実験場として意味する価値があります。私たち年長者は私たちの実験場ではありません。彼らの実験がうまくいくように支援してあげようではありませんか。

結婚したい、だってそれが普通でしょと切羽詰まった女学生は訴えた

経験から年長者である私たちが学ぶことも大変重要です。いうまでもなくそれは学校で教えてくれるような内容ではありませんし、単位も経歴も関係ありません。

ただこの種の学習によって私たち人間とはどのような生き物かを深く観察することに意義があるように思います。最近の女学生からの相談を一例挙げて、彼らの思いの中心に迫ってみることにしましょう。

一人の男子学生が女学生を伴って喫茶店の私の前に着席しました。彼女の相談に乗って欲しいというのが彼の依頼でした。彼は知恵を絞って相談に乗ろうとしたのですが、手に余ってしまったようでした。

彼女の話を聞いていると、彼氏のウワキ話が内容です。ありきたりの話に聞こえますが、彼女にそんな感想を言えませんよね。頷き、ためいきを交えながら彼女の話についていきます。

男性が考える女性は実態からズレているのは古今東西の真理でしょう。だからといって女性の論理性に見られる欠陥や問題を指摘しても実りは多くありませんので、ただ拝聴させて頂くという態度が大切なのです。

同時に彼女を支配している前提や考え方が何なのかを考察することが問題解決のカギになります。彼女は問題や当事者感情そのものに没頭しているので、構造が見えなくなっています。

運命を根拠付けているものが何かとか、浮気しているのではなく、捨てられたのだとか、という批判こそが男性的な論理性です。彼女は自分の姿しか見えていないのですから、冷静な話は通じないでしょうし、だからこそ男子学生は手に余ったのです。

彼女が話し疲れるのを待って、意見を述べる代わりに質問をしました。他の人と同じでなければならないのかと尋ねたのです。彼女は多少不審がりましたが、冷静になって考えることができたようです。

彼女の話を支えている考え方に、「違う」ということは劣っているという古典的な考えが見えた気がしたからでした。自分探しがブームになった時期があり、それは根強く存在しているようですが、同時に周囲の人と違っていることに漠然とした恐怖を感じるようです。

周囲の友人と同程度の就職先、キャリア、人生設計といった横並びによって得られると考えられているのは、大多数というグループへの所属意識です。女性が大家族の一員であることに安心と幸せを感じるということかもしれません。

女性が抱く幸福観、どうなれば幸せかという考え方は驚くほど変化していないといえるでしょう。そのように仮定すれば私たちの経験が同じように有効に活用できるのがわかります。

男女だけではなく、周囲の同輩と違っていることは善悪ではないという考え方が同様に私たち年長者の主張ではないでしょうか。私たちが大切にしてきたもの、考え方の中心にある心は現代の若者の求めるもののひとつです。

家族のために、社会のためにといった、あるいは大義名分を私たちは信じて働いてきたはずです。それを忘れて良いはずはありません。それはまた現代の若者の耳にとっても新鮮に響くのです。

恋愛は自分の完成を目的にするのではなく、相手の幸福を願うところに、出発点があるべきでしょう。このような考え方は論理的には転倒したものだということもできます。しかし、私たちは対人を前提にした社会に生きていて、その中で幸福を追求しているので、正当性を持つのです。

「情けは人の為ならず」に見られる論理の転倒が現代若者たちには欠けているために、正しく社会の心を見れなくなっている。とするならば、社会における論理の転倒を正しく証言し、説明するのは私たち年長者たる中高年の課題になります。

偏差値が高いほど患う可能性が高い?恋愛傾向を押さえて語ろう

幼い頃から両親家族の期待を受けて、まっすぐに応えてきた子どもたちも今や学生として、あるいは社会人として大人社会に参加し始めているはずです。

彼らが対面しての人間関係に苦手意識を持っている事情は既にお話ししましたが、彼らの対人関係がもっとも焦点化して問題になるのは、恋愛関係に関係しています。

いざ、恋愛相談ということになれば、待ったなしの状況に違いありません。そして何より彼らは深刻そのものです。恋愛に切羽詰まる気持ちはわかるではありませんか。

彼らが問題の当事者になっていなければ、歯が浮くような恋愛の理想論が何故かわかりませんが、随分と喜ばれます。喫茶店で学生たちを相手に多少時代じみた恋愛論を説くと、彼らは目に真剣さが宿り、身を乗り出して聞き出します。

中にはノートに取ろうとする者まで出てくるほどです。基本的に彼らは単位取得の目的以外にはノートを取らないなどと思っていたので、ノートを取りながら恋愛論に耳を傾けている姿にたじろぎました。

周囲の期待と本人のプレッシャーは学歴に相関しています。彼らに集められた周囲の期待は、そのまま彼らにプレッシャーとしてのしかかっていますから、彼らは期待されていないことから遠ざかってしまっています。

両親や家族といった社会的な期待に従順だったために、個人的、本能的な技能に未成熟だと考えれば納得できます。技能だと言いましたが、技能も無意識になれば感覚のひとつです。彼らには恋愛に対する感覚がないのです。

彼らの間に自己確認としての恋愛感情という擬似恋愛関係が生れる余地も同じ理由です。恋愛という用語を意識している青年たちは過剰なまでの深刻さをもって恋愛と向かい合います。一方、恋愛をゲームの一種だと曲解してしまった連中は、恋愛を使える道具のひとつのように利用する結果を招きます。

深刻に向かい合うか、それとも道具の一種とするかはありますが、何れにせよ恋愛がゲーム化してきているので参加者と傍観者とに分かれる状況が出現します。その結果、恋愛に生命をかけようとする青年たちと、ゲームとして勝利を目指す人達と、それらを観戦している人たちの3グループに分けることができます。

観戦に回るグループは予備軍だと考えられます。実際、年長者の体験に真剣になって向かい合うのはこのグループなのです。観戦もスポーツ観戦などとはことなって、いわゆる観察学習の段階にあるのだと考えられるでしょう。

社会的に健康な恋愛ができずに、患ってしまう彼らのパターンを大きく2つに分けてみれば、まず声を掛けてから、次の一歩がわからない人がいます。この種の人は、男性に見られますが、ナンパができない人たちです。

デートも独りよがりになりがちです。何が他人に喜ばれるのか、他人が悦ぶことは自分と同じことなのだなどと根拠のない確信を持っていたりしますので、年長者の失敗談は彼らの確信を単に強める結果に終ります。

方や次に最初の声を掛けられただけで結論を導く人がいます。女の子に多いタイプです。ある女学生は街で声を掛けてきたホストの男性が宿命的な出会いの相手ではないかなどと深刻な相談をしました。

出会いのテクニックを紹介してあげましょう。どのようにして出会うことができるのか。どうすれば本当の出会いだと判断できるのか。このような内容はもちろん正解を見つけることができません。だからこそのケーススタディなのです。

彼らはそんな恋愛論に耳を傾けながら、語り部たる私たち年長者、中高年の人品を確認しつつ、人生の規範を見出しているようです。必ずしも現在の恋愛事情ではなく、私たちの過去の恋愛の豊かさが重要なのだと言っておきましょう。

人間だもの!世代が移り変わっても悩みどころはあまり変化しない

ゆとりと呼ばれる世代は生まれた時にはコンピュータが既にあった世代です。彼らに対して、ある種の羨望を感じる人も少なくないと思います。コンピュータなどという難しい機械をなんなく使いこなすように見える彼らは確かに違う世界に生きているようにも見えました。

しかし、冷静になってコンピュータネイティブ世代のメリットとデメリットとを比較検討してみる必要があるでしょう。そうすると彼らに欠けているもの、必要なものが見えてくる。私たち年長者が何を提供できるかも分かるはずです。

彼らの世代のメリットをまとめてしまえば、コンピュータに違和感を持っていないという点に集約されてしまいます。彼らがネイティブユーザーだからといってコンピュータ知識を生得的に持っているのではありません。

コンピュータの専門家に他のメリットを尋ねてみても、大したメリットは見つかりませんでした。操作している様子に違和感が出ていないように観察できるので、私たちは彼らがメリットを享受しているかのように思っているだけではないでしょうか。私たちがうらやましく感じるだけで実はメリットはないのです。

しかし現実は遥かに残酷です。彼らのほとんどはネットを使えば友達はいると主張しますが、その友達に会ったことがないのであって、面識がありません。すべての友人が文通相手であるようなものです。

アメリカに友人がいると言っていた青年の話です。そのアメリカの友人に会ったことがないのはもちろん、友人は日本人で英語も困難だと主張しているのです。表面上は国際的な友人関係に映るだけであって実体のないものなのです。

彼らは遊ぶのも相手に会う必要がありませんでした。子どもの自分から一人でゲームをしているか、ネットに接続して友人と呼ぶ仲間とメッセージを交換しているか。友人との関わりは物理的に制限された小さな窓からやりとりしているだけです。

そのような経験しかなければ、問題が生じないはずがありません。社会は暗黙のルールが複雑に設定されているゲームです。多くの種類の関係があり、関係それぞれにルールが事細かにズレています。ズレが複雑に絡み合って全体としてひとつのゲームを形作っています。

そのような社会に接近する前に経験する子供時代の遊びは社会活動の学習という側面を持っています。砂場の中で、学校の教室や廊下で、家の裏の空地で出会った様々な友人たちが持ち寄った文化のズレとルールのズレから無意識の内に複雑さを習得するはずでした。

一人遊びでは将来の社会活動を準備できません。しかし友達と一緒に遊んだ経験が圧倒的に足りません。それで彼らは、もはやルールを知りすぎて身動きができなくなっています。

徐々に複雑な人間関係のゲームに慣れていけば彼らには大きなチャンスに結びつくはずです。よい感覚に恵まれた若者は確かに簡単なルールのゲームなら飛びつきます。そこに自分たちが必要なものを感じるからでしょう。

対人を意識することが社会性の始まりです。さまざまな反応から自分を判断することが社会的能力のひとつとして発達させなければなりません。だからこそ彼ら自身の企画に大人が参加することに意義が生れます。

彼ら自身が身の丈に見合ったゲームを考えだした時、周囲の年長者としてゲームに参加して、評価してあげるフィードバックをできれば、彼らはそこから十分に学び取れるようになります。

学園祭の企画は毎年、不十分であり、来客に対する想像力が実に貧困です。それでも彼らの中に席を用意させて、私はそこに座って企画の一部を分担して、客への対応を見せています。不十分ながらも、何かが積み上がり、変化しているのも事実なのです。