偏差値教育が批判された結果のゆとり教育だったが、偏差値が意味を消失したわけではありません。偏差値は真面目に社会(学校や家庭)からの要求に答えてきた結果のはずです。
偏差値教育が無効だといくら叫んでみても、国家資格など高い学習能力が求められる分野はいくらでもありますし、それらの分野で偏差値を不要にする試みは危険でしょう。
もっとも偏差値に対する信頼が問題を生み出すのも事実であって、自分たちが偏差値の頂点に分類されるという確信が道を誤らせた事件が相次いだのは悲しい限りです。
このような誤った確信は事件を生み出すまで極端化しなくても、彼ら自身にとても困難な将来を強いることになる要因を含み持っています。
支援者は少なくとも自分以上の能力を持っているべきです。そうでなければ、自分は単なるお山のボス猿のように自分以外の何にも期待できない組織を作ることになってしまうでしょう。
つまり組織の中では周囲の支援者の中で自分が一番未熟であり、最も後進だということになります。少なくともそういう自己認識が求められます。
このように考えると彼ら、高学歴の人たちが持っている自己認識と必要な認識とに大きな差が生じていることがわかります。援助を求めたいが、周囲に頼れる人などいないと考えてしまうわけです。
偏差値が高い学生は孤立せざるを得ないのが彼ら自身の現実です。高学歴者が会社などに就職して社会に出た途端、周囲とのあつれきで孤立してしまう例は多いのも頷けます。
高偏差値を獲得した副作用が表面化したと考えられます。無論、偏差値で計測される能力は、生きていく上で必要な能力の一部に過ぎないですが、それについて沈黙してきたのではないでしょうか。
人の立場で考える力は偏差値では測りきれなかったひとつです。国語教育で芸術文学に触れて、多少は感情の学習をしてもパターンは限られています。勉強すれば、パターンに即した用語を学習することはできますが、体感と結びつくかは偏差値に表れません。
様々な感情を経験する必要が前提にあります。しかし、子どもの頃から一人で遊ぶことに慣れているという意味では、対人して感情を経験する機会が極めて限られていたことになります。
高い偏差値を誇る大学生でも、同様の傾向は強く見られます。言葉は上手に当てられても、実感をまったく伴わない表情を見せる学生が多いのです。そして彼らは同じキャンパス内でも周囲とさまざまに問題を生じて孤立化する傾向が見られます。
ただ全ての学生がそのような体験の問題に無関心ではありません。逆に自分に不足している部分に敏感に反応する学生もまたいます。そのような学生たちを観察していると偏差値が高いと、経験的知識に対して敬意を持てる傾向があるようです。
人間同士の関係を潤滑に維持しつづけるのも能力のひとつであり、知らない分野を誰かに助けてもらうのも能力のひとつでしょう。これらはむしろ人間として無意識に前提されてきた能力ですが、これからは明確に学習する必要があるのではないでしょぅか。
様々な感情体験がこれからの彼らにとって課題になります。しかし、彼らだけが自力で身につけられるはずはありません。そもそもが対人する経験の中で蓄積されるべき性質の知識だからです。
感情体験を主体的に受容して理解するためには他者の目が必要です。そうでなくてはただ、辛かった、嬉しかったで終わってしまう結果になりかねません。小さな体験からできるだけ多くを学ぶ効率的な学習が必要だからです。
日常的な細やかな感情体験で練習を積むのが効果的ですから、日常的に彼らに中高年が関わることが実はとても効果が上がる秘策といえるでしょう。