薄弱な父親を作り出したのが原因か?マザコンとの付き合い方指南

強かった父親というイメージがあります。かつて家の中で一番偉いとされた父親はもう日本には存在しないと言われます。本当にそうでしょうか?

確かに核家族といえば、真っ先に想像するのは一人寂しく夕食を摂る子どもか、あるいは母親と食事している子どもという印象が素直に連想できそうです。

子どもの立場で考えれば、母親と過ごす時間が圧倒的に長いので、父親像が貧しく成長しないと説明されれば、納得できるところもあります。

しかし、仕事で忙しく家庭の中に父親がいないことが多いという状況は現在の特徴ではありません。昔から日本の家庭では普遍的に見られた状況のはずです。

変化したのは、核家族化した点でしょう。つまり父親の話題が少なくなったということです。実際、物理的な存在として父親を意識するよりは、存在を前提とした話題が昔からあったという方が自然な気がします。

祖母や祖父が語る父親の逸話を聞きながら食事をしていた記憶があります。親戚のおじさんやおばさんが父親の話題をしている中に混ざって聞いていたように覚えているのは少数ではないでしょう。

核家族化によってそのように語られる父親が家庭内にいなくなったといえばかなり現状を理解することができます。そして逆の現象もまた説明できるようになります。それは父親に対する憧憬です。

憧憬が強くなることで存在しており、かつての父親像はなくなっていません。だからこそ初等教育の現場に父親を巻き込もうとする力も強まっているのであり、父親を求める気持ちが様々に表れてきているのです。

自分と周囲とを区別するものとしての規範性は父親像に託されたイメージのひとつです。周囲がどうであれ大切にすべきものをしっかりと見る眼差しは父親にふさわしいと感じます。

その感覚には論理的な世界が前提されていて、父親は何かを語るときに感情ではなく論理的に説明し、問題に対して論理的に対処するという期待があるでしょう。

また倫理的な懐の深さと自分自身に対する厳しさとが同時に成立している人間的な大きさや力を感じたいのも、母親にではなく父親に対する期待です。

現代的な問題の典型である長期単身赴任の父親は憧憬を強めましたが、同時に子どもにとって母親の存在が重要になりました。母親が語る父親が子どもの父親像を形作っているといえるのではないでしょうか。

結果としての父親像の不在はありますが、その分の期待があるべき父親の姿をいびつな形に大きくしてしまっているのです。しかし父親像の充足は必要なままであり、語られる父親像は実体がないまま空虚に浮遊しています。

男の子が求める父親像も女の子が求める父親像も裏腹です。男の子が大人になるために空虚な父親像に自分を当てはめようとし、女の子は同じ父親像を求めているように見えます。

父親像の空虚に気づいた時、男の子は男性になることを放棄しても仕方ないでしょうし、女の子は失望して母親との同一化を目指すようになるでしょう。サークルの中を見回すと、このような青年が見受けられます。

血縁的父親でなくても父親像は提供できる事実は重要です。彼らはどのように考えていようと、理想化した父親像は空虚なまま浮遊しており、彼らは実体を求め続けているからです。

彼ら青年たちが父親世代と接触した時にまず、求めるのは父親像との近接性です。理想の父親からの距離を測られているといえます。私たちが感じる居心地の悪さはその行為に起因しています。

彼らにとって親と同じ世代として関わるのですから、彼らの親としてのイメージを意識すれば、彼らの擬似的な親として接することで彼らと親密に信頼関係を築いていくことができるのです。