結婚したい、だってそれが普通でしょと切羽詰まった女学生は訴えた

経験から年長者である私たちが学ぶことも大変重要です。いうまでもなくそれは学校で教えてくれるような内容ではありませんし、単位も経歴も関係ありません。

ただこの種の学習によって私たち人間とはどのような生き物かを深く観察することに意義があるように思います。最近の女学生からの相談を一例挙げて、彼らの思いの中心に迫ってみることにしましょう。

一人の男子学生が女学生を伴って喫茶店の私の前に着席しました。彼女の相談に乗って欲しいというのが彼の依頼でした。彼は知恵を絞って相談に乗ろうとしたのですが、手に余ってしまったようでした。

彼女の話を聞いていると、彼氏のウワキ話が内容です。ありきたりの話に聞こえますが、彼女にそんな感想を言えませんよね。頷き、ためいきを交えながら彼女の話についていきます。

男性が考える女性は実態からズレているのは古今東西の真理でしょう。だからといって女性の論理性に見られる欠陥や問題を指摘しても実りは多くありませんので、ただ拝聴させて頂くという態度が大切なのです。

同時に彼女を支配している前提や考え方が何なのかを考察することが問題解決のカギになります。彼女は問題や当事者感情そのものに没頭しているので、構造が見えなくなっています。

運命を根拠付けているものが何かとか、浮気しているのではなく、捨てられたのだとか、という批判こそが男性的な論理性です。彼女は自分の姿しか見えていないのですから、冷静な話は通じないでしょうし、だからこそ男子学生は手に余ったのです。

彼女が話し疲れるのを待って、意見を述べる代わりに質問をしました。他の人と同じでなければならないのかと尋ねたのです。彼女は多少不審がりましたが、冷静になって考えることができたようです。

彼女の話を支えている考え方に、「違う」ということは劣っているという古典的な考えが見えた気がしたからでした。自分探しがブームになった時期があり、それは根強く存在しているようですが、同時に周囲の人と違っていることに漠然とした恐怖を感じるようです。

周囲の友人と同程度の就職先、キャリア、人生設計といった横並びによって得られると考えられているのは、大多数というグループへの所属意識です。女性が大家族の一員であることに安心と幸せを感じるということかもしれません。

女性が抱く幸福観、どうなれば幸せかという考え方は驚くほど変化していないといえるでしょう。そのように仮定すれば私たちの経験が同じように有効に活用できるのがわかります。

男女だけではなく、周囲の同輩と違っていることは善悪ではないという考え方が同様に私たち年長者の主張ではないでしょうか。私たちが大切にしてきたもの、考え方の中心にある心は現代の若者の求めるもののひとつです。

家族のために、社会のためにといった、あるいは大義名分を私たちは信じて働いてきたはずです。それを忘れて良いはずはありません。それはまた現代の若者の耳にとっても新鮮に響くのです。

恋愛は自分の完成を目的にするのではなく、相手の幸福を願うところに、出発点があるべきでしょう。このような考え方は論理的には転倒したものだということもできます。しかし、私たちは対人を前提にした社会に生きていて、その中で幸福を追求しているので、正当性を持つのです。

「情けは人の為ならず」に見られる論理の転倒が現代若者たちには欠けているために、正しく社会の心を見れなくなっている。とするならば、社会における論理の転倒を正しく証言し、説明するのは私たち年長者たる中高年の課題になります。