これ本当!日本型コミュニケーションの本質は共通体験の蓄積だ

日本語は共有体験を確認するための言語であると簡明に説明する国語学者はあまりいません。しかし、日本語は共通体験を互いに確認し合うために古くから用いられて発展してきたのが事実です。

万葉集に歌われた「思い出」は共通体験だったと考えれば、それぞれの歌に込められている心情を理解するのも容易になるはずです。突然、地名が歌い込まれているのも共有しているからこそ十分だったりします。

「ああ、あの時のあれは感動的だったね」で通じ合うのは日本語ならでは、というのもその感動が共有されている前提があればこそ。

本来、誰かとどこかに出かけた思い出を語り合う楽しみを味わうための言葉が歌になり、また手紙に書かれてきたので、日本語は敬語などの関係表現が発達しました。

共通体験は、主語などが固定しています。わたしが、あなたが、といった言葉はいちいち余分なものになります。説明が他と区別できれば十分だと感じるのも、そういった日本的コミュニケーションが私たちに染み付いているからに他なりません。

このように日本語は誰かと一緒に体験したことに、詩的な意味を加えたり、余韻を味わったりすることが得意なのです。それに対して体験を伝える英語などの外国語は主語を明示する特徴があります。

誰かがどこかで何かを発見した、体験したという内容を伝えるためには、それぞれの要素を簡潔に示した上でどれも省くことができません。それでも実際の会話では省略が前提に話されています。

諸外国語でも、共通している体験を指し示す時には、相手も了解している内容を省くからです。その結果、会話の際には日本語と同様にさまざまな変化を見せます。外国語の場合は会話の省略と記述したものとに大きな違いが出てくるわけです。

英会話などの外国語の会話が苦手な日本人の特徴的傾向はコミュニケーションの形が違うからといえるでしょう。自分の体験を誰かに伝える外国語と、一緒体験したことを確認するための日本語では自ずと発展させる機能が異なってきます。

共有体験を前提にしたコミュニケーションで日本らしい会話ができるようになります。若者とコミュニケーションが上手く取れない原因の背景には共有している社会のズレがあったりします。

学校での経験が違っていると学校に関する話題でコミュニケーションを取るのは難しいでしょう。しかし青年たちは学校での経験をベースに新しい経験を解釈しますから、実社会での経験も意味理解が違ってしまいます。その結果、実社会での経験の価値付けもずれてきたりします。

このようなストレスをお互い抱えているのが現代社会の一面だと言えそうです。ですからコミュニケーションを確立するためにいろんな体験を一緒にするのが効果的です。

できるだけ小さな共通経験を持つことが効果的です。できれば、毎日繰り返せるような経験を共通して、年長者が社会的に認められている解釈を提示すれば、若者たちに理解しやすくなるでしょう。

食事をすることは親密な人間関係の基本条件です。一緒に食事をするだけで、相手は信頼してくれるようになる場合もあります。暗に若者が食事を要求してくるときもあります。

それは彼らが年長者と信頼関係を築きたいと願っているからです。決して年長者など不要だと思っていないことの証拠だといえるでしょう。むしろ一度信頼を寄せると距離感は一気に縮まってしまうので、年長者がたじろぐかもしれません。

お茶をすることは食事の代わりになるでしょう。たしかにコミュニケーションはどんどん親密になっていくようです。その他、旅行をするなどの企画やお祭りに参加する、ゲームを楽しむなどが役に立つように思えます。