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人間だもの!世代が移り変わっても悩みどころはあまり変化しない

ゆとりと呼ばれる世代は生まれた時にはコンピュータが既にあった世代です。彼らに対して、ある種の羨望を感じる人も少なくないと思います。コンピュータなどという難しい機械をなんなく使いこなすように見える彼らは確かに違う世界に生きているようにも見えました。

しかし、冷静になってコンピュータネイティブ世代のメリットとデメリットとを比較検討してみる必要があるでしょう。そうすると彼らに欠けているもの、必要なものが見えてくる。私たち年長者が何を提供できるかも分かるはずです。

彼らの世代のメリットをまとめてしまえば、コンピュータに違和感を持っていないという点に集約されてしまいます。彼らがネイティブユーザーだからといってコンピュータ知識を生得的に持っているのではありません。

コンピュータの専門家に他のメリットを尋ねてみても、大したメリットは見つかりませんでした。操作している様子に違和感が出ていないように観察できるので、私たちは彼らがメリットを享受しているかのように思っているだけではないでしょうか。私たちがうらやましく感じるだけで実はメリットはないのです。

しかし現実は遥かに残酷です。彼らのほとんどはネットを使えば友達はいると主張しますが、その友達に会ったことがないのであって、面識がありません。すべての友人が文通相手であるようなものです。

アメリカに友人がいると言っていた青年の話です。そのアメリカの友人に会ったことがないのはもちろん、友人は日本人で英語も困難だと主張しているのです。表面上は国際的な友人関係に映るだけであって実体のないものなのです。

彼らは遊ぶのも相手に会う必要がありませんでした。子どもの自分から一人でゲームをしているか、ネットに接続して友人と呼ぶ仲間とメッセージを交換しているか。友人との関わりは物理的に制限された小さな窓からやりとりしているだけです。

そのような経験しかなければ、問題が生じないはずがありません。社会は暗黙のルールが複雑に設定されているゲームです。多くの種類の関係があり、関係それぞれにルールが事細かにズレています。ズレが複雑に絡み合って全体としてひとつのゲームを形作っています。

そのような社会に接近する前に経験する子供時代の遊びは社会活動の学習という側面を持っています。砂場の中で、学校の教室や廊下で、家の裏の空地で出会った様々な友人たちが持ち寄った文化のズレとルールのズレから無意識の内に複雑さを習得するはずでした。

一人遊びでは将来の社会活動を準備できません。しかし友達と一緒に遊んだ経験が圧倒的に足りません。それで彼らは、もはやルールを知りすぎて身動きができなくなっています。

徐々に複雑な人間関係のゲームに慣れていけば彼らには大きなチャンスに結びつくはずです。よい感覚に恵まれた若者は確かに簡単なルールのゲームなら飛びつきます。そこに自分たちが必要なものを感じるからでしょう。

対人を意識することが社会性の始まりです。さまざまな反応から自分を判断することが社会的能力のひとつとして発達させなければなりません。だからこそ彼ら自身の企画に大人が参加することに意義が生れます。

彼ら自身が身の丈に見合ったゲームを考えだした時、周囲の年長者としてゲームに参加して、評価してあげるフィードバックをできれば、彼らはそこから十分に学び取れるようになります。

学園祭の企画は毎年、不十分であり、来客に対する想像力が実に貧困です。それでも彼らの中に席を用意させて、私はそこに座って企画の一部を分担して、客への対応を見せています。不十分ながらも、何かが積み上がり、変化しているのも事実なのです。

参加してあげよう!彼らは一緒に遊んだ経験が圧倒的に足りなかった

ゆとりと呼ばれる世代は生まれた時にはコンピュータが既にあった世代です。彼らに対して、ある種の羨望を感じる人も少なくないと思います。コンピュータなどという難しい機械をなんなく使いこなすように見える彼らは確かに違う世界に生きているようにも見えました。

しかし、冷静になってコンピュータネイティブ世代のメリットとデメリットとを比較検討してみる必要があるでしょう。そうすると彼らに欠けているもの、必要なものが見えてくる。私たち年長者が何を提供できるかも分かるはずです。

彼らの世代のメリットをまとめてしまえば、コンピュータに違和感を持っていないという点に集約されてしまいます。彼らがネイティブユーザーだからといってコンピュータ知識を生得的に持っているのではありません。

コンピュータの専門家に他のメリットを尋ねてみても、大したメリットは見つかりませんでした。操作している様子に違和感が出ていないように観察できるので、私たちは彼らがメリットを享受しているかのように思っているだけではないでしょうか。私たちがうらやましく感じるだけで実はメリットはないのです。

しかし現実は遥かに残酷です。彼らのほとんどはネットを使えば友達はいると主張しますが、その友達に会ったことがないのであって、面識がありません。すべての友人が文通相手であるようなものです。

アメリカに友人がいると言っていた青年の話です。そのアメリカの友人に会ったことがないのはもちろん、友人は日本人で英語も困難だと主張しているのです。表面上は国際的な友人関係に映るだけであって実体のないものなのです。

彼らは遊ぶのも相手に会う必要がありませんでした。子どもの自分から一人でゲームをしているか、ネットに接続して友人と呼ぶ仲間とメッセージを交換しているか。友人との関わりは物理的に制限された小さな窓からやりとりしているだけです。

そのような経験しかなければ、問題が生じないはずがありません。社会は暗黙のルールが複雑に設定されているゲームです。多くの種類の関係があり、関係それぞれにルールが事細かにズレています。ズレが複雑に絡み合って全体としてひとつのゲームを形作っています。

そのような社会に接近する前に経験する子供時代の遊びは社会活動の学習という側面を持っています。砂場の中で、学校の教室や廊下で、家の裏の空地で出会った様々な友人たちが持ち寄った文化のズレとルールのズレから無意識の内に複雑さを習得するはずでした。

一人遊びでは将来の社会活動を準備できません。しかし友達と一緒に遊んだ経験が圧倒的に足りません。それで彼らは、もはやルールを知りすぎて身動きができなくなっています。

徐々に複雑な人間関係のゲームに慣れていけば彼らには大きなチャンスに結びつくはずです。よい感覚に恵まれた若者は確かに簡単なルールのゲームなら飛びつきます。そこに自分たちが必要なものを感じるからでしょう。

対人を意識することが社会性の始まりです。さまざまな反応から自分を判断することが社会的能力のひとつとして発達させなければなりません。だからこそ彼ら自身の企画に大人が参加することに意義が生れます。

彼ら自身が身の丈に見合ったゲームを考えだした時、周囲の年長者としてゲームに参加して、評価してあげるフィードバックをできれば、彼らはそこから十分に学び取れるようになります。

学園祭の企画は毎年、不十分であり、来客に対する想像力が実に貧困です。それでも彼らの中に席を用意させて、私はそこに座って企画の一部を分担して、客への対応を見せています。不十分ながらも、何かが積み上がり、変化しているのも事実なのです。

これ本当!日本型コミュニケーションの本質は共通体験の蓄積だ

日本語は共有体験を確認するための言語であると簡明に説明する国語学者はあまりいません。しかし、日本語は共通体験を互いに確認し合うために古くから用いられて発展してきたのが事実です。

万葉集に歌われた「思い出」は共通体験だったと考えれば、それぞれの歌に込められている心情を理解するのも容易になるはずです。突然、地名が歌い込まれているのも共有しているからこそ十分だったりします。

「ああ、あの時のあれは感動的だったね」で通じ合うのは日本語ならでは、というのもその感動が共有されている前提があればこそ。

本来、誰かとどこかに出かけた思い出を語り合う楽しみを味わうための言葉が歌になり、また手紙に書かれてきたので、日本語は敬語などの関係表現が発達しました。

共通体験は、主語などが固定しています。わたしが、あなたが、といった言葉はいちいち余分なものになります。説明が他と区別できれば十分だと感じるのも、そういった日本的コミュニケーションが私たちに染み付いているからに他なりません。

このように日本語は誰かと一緒に体験したことに、詩的な意味を加えたり、余韻を味わったりすることが得意なのです。それに対して体験を伝える英語などの外国語は主語を明示する特徴があります。

誰かがどこかで何かを発見した、体験したという内容を伝えるためには、それぞれの要素を簡潔に示した上でどれも省くことができません。それでも実際の会話では省略が前提に話されています。

諸外国語でも、共通している体験を指し示す時には、相手も了解している内容を省くからです。その結果、会話の際には日本語と同様にさまざまな変化を見せます。外国語の場合は会話の省略と記述したものとに大きな違いが出てくるわけです。

英会話などの外国語の会話が苦手な日本人の特徴的傾向はコミュニケーションの形が違うからといえるでしょう。自分の体験を誰かに伝える外国語と、一緒体験したことを確認するための日本語では自ずと発展させる機能が異なってきます。

共有体験を前提にしたコミュニケーションで日本らしい会話ができるようになります。若者とコミュニケーションが上手く取れない原因の背景には共有している社会のズレがあったりします。

学校での経験が違っていると学校に関する話題でコミュニケーションを取るのは難しいでしょう。しかし青年たちは学校での経験をベースに新しい経験を解釈しますから、実社会での経験も意味理解が違ってしまいます。その結果、実社会での経験の価値付けもずれてきたりします。

このようなストレスをお互い抱えているのが現代社会の一面だと言えそうです。ですからコミュニケーションを確立するためにいろんな体験を一緒にするのが効果的です。

できるだけ小さな共通経験を持つことが効果的です。できれば、毎日繰り返せるような経験を共通して、年長者が社会的に認められている解釈を提示すれば、若者たちに理解しやすくなるでしょう。

食事をすることは親密な人間関係の基本条件です。一緒に食事をするだけで、相手は信頼してくれるようになる場合もあります。暗に若者が食事を要求してくるときもあります。

それは彼らが年長者と信頼関係を築きたいと願っているからです。決して年長者など不要だと思っていないことの証拠だといえるでしょう。むしろ一度信頼を寄せると距離感は一気に縮まってしまうので、年長者がたじろぐかもしれません。

お茶をすることは食事の代わりになるでしょう。たしかにコミュニケーションはどんどん親密になっていくようです。その他、旅行をするなどの企画やお祭りに参加する、ゲームを楽しむなどが役に立つように思えます。

自分だけのエピソードは若者たちとつながる強力なツールです

青年たちに知識があっても経験不足なのが当たり前です。どれだけ学校の勉強をしたとしても、それだけでは役に立たないでしょう。でもそれが何故なのかと問われても答えることができないかもしれません。

役に立つとは、周囲の人の役に立つか、それとも自分の夢の実現の力になるかなどと目的によってそれぞれ指している意味が分かれてくるからです。

つまり知識が実際に役立つように応用できるためには十分なケーススタディが必要なのですが、現在の学校教育ではほとんど提供されていません。だからこそ、個別の体験から学ぶ機会は貴重なものになるでしょう。

そのような経験の重要性をわかっている若者は年長者の大切さを知っています。すべての若者、青年が年長者の大切さを知っているとは言えませんが、重要性を理解している若者たちは少なからずいますし、彼らは大抵、有能で将来性があります。

実社会では理論を実践できるかが問題になります。実社会は実験室ではありませんから、環境が整えられていません。また教室でもありせんから教科書やガイドブックもありません。

その上、試みたことで評価を受けるではなく、実現できたものの価値で評価を受けることになります。実社会で経験する成功、失敗や挫折とあるはずですが、青年が触れるものは当然ながら成功談が多くなりがちです。

年長者の中でも中高年はそれぞれの人生を渡ってきた強者です。強者とは成功に成功を重ねてきた者のことではありません。強者とは失敗と挫折を乗り越えてきた者の称号です。

失敗談こそは、成功のためのカギを隠した秘伝という要素を持った体験談なのです。そこから学んで継承すべき内容は実にふんだんであって、自分が若ければという苦悶すら含んでいるはずです。

そのような内容に触れる機会こそ貴重ではないでしょうか。失敗ですべてが終わってしまうのではない、何度も挑戦する力がどこからくるのかを知ることは、なによりも重要なはずです。年長者が提供する内容は現実にある危機であり、失敗であり、再挑戦です。それらを共有する交流が価値を持つはずです。

青年たちはそういった年長者との交流から、経験した固有の体験からケーススタディができます。学歴が役に立たない社会でどうやって夢を実現するのか。夢を実現するのは簡単なことではない、だから何が必要でどうすれば良いのかを知りたいのです。

彼らは個々の感性と能力を認めてもらって成長してきたはずですが、そんな能力だけで夢は実現しないのは明らかです。改めて考えなければならないのは夢を実現するために何が重要なのかということです。

実際にやりたい事や夢を実現するには、何が何でも協力者が必要です。協力者がなくては、軌道修正ができませんし、力も個人の力に限られてしまいます。人間の夢はほとんどの場合、複数の人間からの集団の中で価値を持つべきだからです。

大切な考え方のひとつに能力の高さで協力者を集めることはできないというものもあります。能力が高ければ夢は実現できると思っている若者は数多くいます。

彼らは能力が低いから、先輩たちは失敗に終わった程度に考えているかも知れません。しかし、過去の失敗には本当に能力が低いために成功できなかったわけではありません。

チャンスに恵まれなかったと分析する孔子の例は知られていませんが、彼は決して能力が不足していたのではありません。そして若者たちに能力以上に大切になる要因を伝えられるのは、年長者であり人生の証言者なのです。

失敗に負けない人生の歩き方を証言して、提示できる年長者は貴重であり、堂々と彼らと向かい合う中高年は現代の勇者として価値ある存在となります。

対人スキルを伸ばして!圧倒的な若返り効果が期待できるって本当

知らない世界に触れるという刺激で若返りが期待できるのは最近特に社会的に説かれている学説です。知らない世界に対する欲求は確かに加齢とともに衰えていくように思えます。また子どもたちの方が道の世界に対する期待も大きいといえそうです。

知らない世界は、なにもオカルトの世界に限りません。今まで行ったことがない土地の習慣であったり、耳にしたことがないような方言であったり、考えもつかなかったような発想だったり。これらのものはすべて異文化からもたらされます。

つまり知らない世界とは、異文化のことだと思えばよいのです。異文化は異なる価値観、習慣、考え方をもっており、経験がなければれらは確かに知らない世界そのものなのです。

そのような異文化に触れることによって私たちの認識は揺さぶられ、大脳皮質は強い刺激を受けます。その刺激こそが大脳活動の活発化を促します。異文化との触れ合いは若返りの秘薬なのです。

異なる文化に属している知り合いが多いほど、見かけを離れて若々しく見えるようになるのは事実です。それなら出来る限り異なる文化との接触が効果も高いと言えそうです。

とは言え、新しい外国語を習得するのは荷が重すぎるかもしれません。そこで文化的属性は職業、年齢、社会的立場、出身地で考えれば、外国からの訪問者に限らず異文化として意識できます。

同じ言葉を話すはずなのに、職業が異なると普段の言葉遣いから違ってくるものですし、年齢が離れれば、また社会的立場が異なれば、考え方が異なります。また出身地が知らない場所であれば、背景になる文化もまったく異なります。

私自身は山陽地方に縁がなかったのですが、グループに山陽地方の年出身者がいるおかげで、瀬戸内海地方の季節について具体的なイメージを描けるようになりました。

地方出身者はそれぞれの世界観を色濃く持っています。同世代の主張になると鼻につくこともあり、対応を誤ると人間関係に問題が生じることもあるでしょう。しかし、相手が若く年齢が離れていればそのようなリスクを回避するのは簡単なのです。

このように属性が違う友人を多く持つメリットがあります。地方の文化や感覚を知ることを始め、地方の特産や料理などについて知る機会は大きな楽しみです。

さらに世代が異なると使用する言葉が異なってきます。思いもよらない言葉の使用に触れたりすると衝撃を覚えることもありますが、これも属性が異なっていることが緩衝材になっています。

このような対人スキルでは中高年が絶対的に有利だといえます。逆に若い世代が求めている対人スキルを中高年の年長者が提供する関わりが彼らに刺激を与えることになります。

大人と子どもの違いこそが対人スキルです。大人になってもらうために大人の支援が必要です。大人になるとは社会的に大人になるという意味ですから、つまりは対人スキルの習得そのものです。

彼らは対人スキルに熟達した中高年と接することによって、社会的に通用する社会スキルと責任感を身につけることができるでしょうし、中高年は柔軟に受け入れる気持ちひとつで若返るヒケツを得る結果になるでしょう。

この考え方は応用可能です。地域に居住している外国出身者と関わることや、地元の学校活動に参加するなどすれば、さらに様々な属性を持った集団形成を期待できるに違いありません。

たまにはご自身の出身校の学園祭、文化祭に顔を出して後輩たちの顔を見ながら、世間話をしてみるような試みから始めてみれば、新たな異文化と出会う機会になるでしょう。

小グループを構築して関わることで、葛藤回避をコントロールする

小グループを構築する意味は小さくありません。ここでいう小グループとは若者のグループの方ですが、人数は2人以上の小規模なものを指しています。

言い換えると個人指導を出来る限り避けるようにするべきなのです。一対一の対決関係を避けるのには、大きく3つの理由があります。

一般的に人間は葛藤のストレス状態で長く安心していられません。そしてストレスに対する体制訓練が不十分な現代の若者世代は特に葛藤から逃げる傾向が強いようです。交流から逃げるという判断は本来は自殺行為なのですが、彼らはその大きな意味が理解できていません。

ですから、ストレス環境を緩和するように配慮を十分にする必要があります。交流する環境として一対一の個人指導になると、ストレスを回避するための仕掛けを用意することが難しくなります。なので若者と一対一になる環境をそもそも避けるようにします。

グループは葛藤から隠れる場所として機能します。若者同士がヒソヒソして、ニヤニヤ笑ったりしている場合があります。それはとりも治さず、ストレス環境に反応して葛藤を緩和するための無意識の行動なのです。それを容認することによって、指導する年長者側の配慮は軽減されます。

人間は家庭環境の問題を投影する傾向がありますが、彼ら若者世代の一般的な家庭環境はかつてないほど、多様になっていると考えられます。例えば父親との関係や母親との関係に問題があると、それぞれに対して特徴的な傾向を持つようになります。

その意味では個別の傾向に極端に反応しないように注意すべきでしょう。グループに対する指導を念頭に置けば、個別の傾向は抑制されますので、極端な反応を容易に回避できるようになります。

指導をする際に個人的な個別批判を避ける工夫が必要です。具体的である必要はあっても、個人を特定して非難することは後々多くの点で問題を生じる可能性を残します。そのような事故を回避するための作戦はとりあえず3つ程度用意しておきましょう。

問題は一般化して指摘する方が柔らかく響きます。個人名を挙げずに頭文字で代表させる方法は、研究分野などで頻繁に採用されます。こうすることで関係のない人には抽象的に聞こえますが、問題に直接関わっている人間には自分が当事者であることが理解できます。

当事者も含めて第三者の行動として厳しく批判すると効果的です。自分の兄弟の問題として当事者にも考えてもらう作戦です。他社に対しては批判的な視線が容易になりますので、まず批判的な考えを用意してから、当事者を話題の中心として理解させるように仕向けます。

この例の応用として自分の失敗談を例に挙げて具体化する方法も便利に使えるでしょう。年長者の失敗談は若者に親近感を抱かせ、批判的精神を養う題材として適切です。問題を取り扱うための例題として自分の人生経験を利用することになります。

このような方法を利用することで、過激になる指導を避けるようにしますが、年長者が前提にすべきこころがけを確認しておきましょう。

グループでは必ず、リーダとして適正のある人物が成長して頭角を現します。しかし、このように能力の高い人間に期待しすぎないようにする必要があります。

彼らは成長を始めても経験が不十分であり、絶えず問題に面して大きなストレスを抱えるからです。中には率先して責任を取りますなどと口走る者もいたりしますが、このような人物は慎重に取り扱う時期にあると考えるべきです。

その他、異性に対する反応には注意すべきなのは、ここで説明するまでもないと思います。年長者といえども、異性に対する能力は十分ではないことを謙虚に認めて接すれば良いのです。

口の利き方からマナーを身に着けてもらうためのマニュアルはこれ

現代の若者たちは敬語が使えません。こう言うと多くの人達がうなずきます。が実は敬語は人間関係能力の発達と深く関わる能力のひとつですから、実は大人だと思っていてもなかなか上手に使いこなせる人はいないのが実情です。

そのような現実を度外視して、若者の能力不足を嘆いても解決になりません。また、敬語が使えないと指摘するのも実りがある行為ではないでしょう。能力の欠如を糾弾するよりは、習得すべき内容をひとつひとつ具体的に指摘する方が現実的に効果します。

特に簡潔に表現するために、関係する言葉を省略するとどこかで意味が決定できなくなります。意味を決定するためにその場のコンテキストを利用して意味を決定しますが、当事者のコンテキストが一致していなければ、誤解を生じます。

必ずと言えるほど直面したのは、ごめんなさいを正しく言えない若者たちです。高学歴な若者に共通しているのは、謝罪と言い訳との混同です。対してまず言いたくなるのは「言い訳をするな」なのですが……。

そこで、言い訳とは何かを説明しようと思うと、はたと困ってしまうはずです。「言い訳とは言い訳だろう」では話が通じなくなってしまいます。実は言い訳とは自己正当化のこと。

謝罪の冒頭で、理由をあれこれ挙げられることで、仕方なかったという意図を主張しているのです。自分は悪くなかったのであって、仕方ない理由があれこれあるのですと、言っているわけです。

理由、それから謝罪の言葉という順序で説明されると、無責任に聞こえたり、往生際が悪く見えたりします。彼らには悪意はありませんし、根拠は正当性を持っている場合もあります。

悪いのは、謝罪する時の説明の順番なのです。まず謝罪の言葉を述べさせる。それに続いて理由を説明させるようにします。できればそれに続けて今後の対策を考えさせましょう。

簡単にできるのは、それを家庭内で十分に訓練を受けることができたことや、友人たちと対面しながら関係を維持したり、破壊したりという交友関係に恵まれていたことの結果です。

年長者になった中高年の世代は、そのような機会に十分恵まれて経験を積むことができたはずです。そしてそのような機会を十分に持てなかったのが、現代の若者世代です。持つものが持たないものをただ責めるのでは、実りを期待できないでしょう。

謝罪や連絡は必要だけれど敬語を間違うと、相手をバカにしているようになるのをどれだけの若者たちが理解しているでしょうか。大きな疑問が残ります。

敬語をその心から解説して指導する必要があるでしょう。単に語彙を置き換えるのが日本の敬語ではないからです。ですから敬語の理解は高度で一朝一夕に習得できる内容ではありませんし、長い実践経験が必要です。一般的で最低限の約束事を押さえましょう。

まず言葉のレベルを丁寧語にするようにします。丁寧語は相手に対する敬意は含みません。だからこそ敬語を効果的に使えるようになります。自分のことを説明するために謙譲語を中心にすると、自分の周辺に対する距離感を喪失してしまいます。

目の前の話し相手に対して敬語を使うという原則を改めて指摘しておくのも必要だと思えます。特に若者の環境では、周囲にいる大人に対してはすべて敬語であるべきだと考える節があるようです。

第三者の行為に主語を省かないように指導します。敬語の能力が低い段階で、第三者まで省いてしまうと意味が不明になるリスクが大きくなるからです。

このようなごく少ない敬語の運用をしっかりと習得できるように指導することで驚くほどコミュニケーションは潤滑になり、若者たちを信頼できる仲間だと理解できるようになるでしょう。

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現代の若者はとても合理的。カードローンだって必要に応じてうまく活用してます。
参考記事:若者はどんなふうにカードローンを活用してる?20~30代の利用状況
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対人緊張パターンは兄弟構成でわかる!安心させてコミュニケーション

概して現代っ子は、人との付き合いが億劫だと思っています。必要なら、SNSなどの情報サービスを利用して誰かに接触するなり、対応をすれば良いと考えてるというのです。

サークルに新しく入ってきたある女子は、寮の部屋に閉じこもっているのが好きだと言います。それならなぜサークルに顔を出しているのかといえば、対人の能力が必要だと知っているからです。

言い換えれば、彼女のような典型的な指向性を持っている青年たちは、自分の必要なもの、自分に欠けている能力が何であるかを知っているのでしょう。

必要性が理解できていても、彼女はサークルに参加してすぐに建物の影やベンチに向かい、グループの会話から逃れてしまいます。グループの中で受けるストレスが大きな負担になっているのです。

彼らのような若者にとって対人能力が不要にならない限り、このような青年たちをどうすれば、グループの活動に巻き込めるのかが、支援する年長者にとって大きな課題になります。

学習しなければ、能力は引き出して育てられません。私たちは友人たちで遊ぶ日々を過ごして学べたのですが、彼らはそのような環境は与えられませんでした。

したがって、時既に遅しと諦めるのではなく、今からでも支援することで彼らの能力を育てることが求められています。かなり高度な支援技術を要しますので、年長者たる中高年に期待される支援なのです。

彼らの非言語的なアプローチの意味を汲み取り、理解して、少しずつ能力を伸ばすように支援します。本人の無意識な距離感が物理的な距離感に表れますが、このような信号を逐一理解することは面倒なのですが、彼らの無意識な行動パターンは生得的な家族構成に支配されているのが理解の助けになるはずです。

長男・長女であれば、無意識的にリーダとして振る舞おうとし、他人に従うことにストレスを覚えるはずです。自分の意見を強く持っていて、それ故に他人との意見を調整する能力に課題を持ちます。

一見すると扱いにくそうですが、実は責任感と正義感が裏に隠されていると考えるとうまく指導できます。彼らは長子が引き受けるべき責任と正義感とを備えているからです。

過度の期待をせず、責任の負い方を具体的に指摘するようにします。また他者を支配することによる正義の実現ではなく、非合理の苦痛に対して共感を提供するようにします。

次男・次女は卒なく集団に従い自らの意見を表出することが少なくなります。彼らはとても従順で接しやすいように見えますが、本当の思いを内に秘めてしまい、なかなか心を示してくれません。

後になってから、本当は…という言い方をしがちのようです。彼らの気持ちを無視して、計画を進めてしまうと後から問題が起こってくる場合もありますし、彼ら自身は諦めから無気力になってしまうようです。

彼らからどれだけ意見を引き出せるようになるかが、年長者の腕の見せどころといえるでしょう。彼らは育つとグループ内の人間関係の調整役を買って出ます。そして極めてその対人関係能力は高く有能だとわかってきます。

末っ子はいつも甘えん坊であり、率先して何かをするのに苦手意識を持っています。何かを提案してもらうまでじっと待っています。その意味では忍耐強く、また全体の雰囲気を作り出すのです。

一番目立つのは、一人っ子であり、グループ内に多くいるのも一人っ子です。これが現代を映している一面でしょうが、彼らは長子の特徴と末っ子の特徴とを併せ持っています。

彼らはリーダ指向が強く、甘えたです。他者関係に於いては適切な距離感に問題があります。ですから距離感を適当に保つコツを支援することで彼らは長所を発揮するようになります。

ルール違反に罰則?それより一緒に企画を楽しむ作戦が上手くいく

一対一の交流は避けるのが賢明です。一対一の対応を迫られると交流が未熟な若者たちは大きなストレスを受けて、交流そのものを避けようとするのはよく知られた「葛藤回避」という症状です。

中高年などの年長者が効果的に接した結果としてグループをリードするようになるはずで、そのグループは必ず徐々に育ってきます。そしてある一定の大きさのグループに育つと生じてくる問題が、ルール違反者に対する対処でしょう。

ルール違反そのものはどんな集団にもあります。だからといって無条件に見逃すことはできませんし、その場その場の対応では、リーダの能力が疑われるようになります。

そこで明確なルール化を必要としますが、明確なルール化がルール違反者を作り出すという構造を持っているのは皮肉な仕掛けで、ルール違反は規律を乱し、全体の目的を見失わせるでしょう。

だからといって罰則対応で一律に対応するのでは、ルール違反者の抱える問題を無視する結果になり、これはこれで集団の形成を邪魔する結果を生むでしょう。

一律に対応することで公平性を保つことはできても、個人個人の有り様を器械的に排除してしまい、グループの形成が不可能になっていくという矛盾を抱えているのがルール違反者の扱いなのです。

時間を厳守がまず最初のルールでしょう。このルールを補完するのが連絡するお約束です。この2つのお約束をしっかりと守れるかが交流継続の最低限のルールなのです。

ルール違反の取扱を誤ると交流が断絶してしまう。単純にルール違反を責めることで何の積極的効果も生まれません。以降は交流を立つことでルール違反しないようにする選択をするだけなのです。

若者にとって交流断絶のリスクはないのも同じといえます。彼らにとって交流は無限に、無条件に周囲から与えられるべきものだからなのです。それは勿論、大きな誤りを含んでいます。

それでも何程かの能力が前提できるからこそ、自分は周囲から関わってもらえるし、そうあるべきだという信念が若者の中にあるように感じられます。これもまた共感中心教育の成果なのです。

例えば遅刻する人をどう扱うかと考えなければならないとき、問題は顕著に現れるでしょう。これはしかし、若者同士でも同じことなのです。ここに問題解決のポイントがあります。

時間を守るためのルールを自分たちで決めさせるのです。その時に決定の問題点を年長者が指摘するのです。こうすることによって、自ら取り決めたルールですから、従うより他なくなります。そして若者同士でルールを決めさせると責任感が育つ効果も得られるでしょう。

それでもルール違反が目立ってきた時点で全体会議を招集する必要があります。これはルールの調整を適正に行うためです。こうすることによって硬直化したルール支配を避けることが可能になります。

全体で議論させて、自分たちでルールを決めさせる。そしてそれに年長者が従うという態度によって責任者の取るべき態度を示すことが効果的に示せます。

昔の人は隗より始めよなどと言って、グループのリーダになる秘訣を示しています。確かにリーダが率先しないグループの規範性は比較的低くなってしまうのはよく知られた事実です。

逆にいえば、リードすべき年長者がルールを守れないなら、話になりません。自ら規範を立てて、それに従うことを内規性と言いますが、この能力を発達させるには長い時間が必要で、若者の自主性とは別物です。

年長者たる中高年こそが、十分に内規性を育てることができた人材だということになります。その能力は若者たちが自分で事業を立ち上げて育てるときの必須要件であることは間違いありません。

中高年だからこそ!ゆとりの若者との応答関係を作り出して始める

現代若者と接するとき、アナログ世代といわれる私達が驚くのは何よりも彼らの言葉とその使い方です。たしかに日本語であることはわかるのですが、場合によっては意味がまったく理解できないという経験をします。

男の子が女の子と親しげに話をします。彼らの言葉の応酬に耳をそばだてると、耳に障る女言葉が頻繁に交わされいるのに気づくでしょう。男の子も女の子も基本的に共感語と呼ばれる言葉を投げあって、お互いを理解しているのです。

そうかと思えば、何かの情報をやりとりする必要に迫られると、彼らはまったく考え出せなくなるようで、言葉がぷっつりと途絶えてしまうのにも遭遇します。

そんな彼らを観察していると、彼らは言葉を使って何かを考えて、整理したり、付け加えたり、変化させたりするのが苦手なのかと思わされます。

どうやって付き合えばよいかわからない。そのような感想を結論にするのでは始末におえないですが、確かにそのまま支援できないのも事実です。

彼らの言葉の問題は、ものごとの関係が言葉に表されずに省略される点にあります。日本語は語順に融通が効きますが、まったく自由であるとはいえません。語順を融通させるために、ものごとの関係を壊さないように工夫が必要です。

彼らの受けた教育は、ともかく表現することを求めるという訓練を中心にしていましたから、言葉同士の関係を緊密に維持する工夫に欠けているともいえるでしょう。

特に敬語の知識が不十分なので、裏に隠れた関係を理解する手がかりが失われています。勿論、ケースバイケースで問題点はスライドして表れてくるのですが、根底にある問題点は共通していて、省略された言葉の関係が理解困難になっていたり、一般的ではなかったりするのです。

特に敬語の問題は深刻です。社会でのトラブルの一端を担っているのもやはり敬語の誤用だとはよく耳にします。とにかく敬語を使っていればいいのだという枠の大きな理解しかなかったりします。

自分の作成した書類を指して「作成された」と言ったりするのは、敬語の誤用で、丁寧語のつもりで敬語を使ってしまっているのです。

しかし、敬語の誤用を事細かに指摘しても、ただ煙たがられて結局、遠のいてしまうだけになるでしょう。敬語は人間関係の距離を表現することを第一の機能とし、距離が表現されているからこそ、「誰が」「誰を」という言葉を省略することができるのだということを、彼らに理解させる必要があります。

そのような言葉の上での距離感は、中高年ともなれば無意識に使えるほど熟達している能力です。もう一度、敬語の使い方を意識して見れば、どのような場合にどのうような言葉遣いをしているかもわかるのが中高年です。

ひとつには、具体的な表現例を示して教示することが有効なようです。特に断りを依頼する際の表現ができていない例がなんどか見られました。学生たちにその例を示しても何が問題なのかすらわからなかったようです。

つまり、悪気がまったくないのでこちらの指摘に意味がわからないといった反応が強く見られました。そこで、例文から取れる意図を明示した上で、改定した文を示して、その上でパターンを提示するようにしました。

悪意がないのですから、表現のパターンを訂正すればいいだけの話です。それ以上の示唆は野暮になるでしょう。そして徐々に社会で通用しているコンテキストとのズレを意識できるように指示する作戦をとり、現在は断り依頼については問題が出なくなりました。

理解してもらえる状態への依存が非常に強い応答から、理解してもらえる努力を明確にする応答へと誘導してやる必要がありそうなのです。