従来の社会的枠組みは時代遅れ!でもそれに代わる枠組みは未完成

制度内で対応しきれない問題が増えてきたといえませんか。新聞の社会面を埋める事件の数々は、従来の制度からはみ出した出来事が既存の方法で対処できなくなった結果であるように思えて心が痛みます。

戦後日本の政策が関係しているとすれば、中でも文化多様化が大きく影響しているといえそうです。日本各地に点在している難民受け入れ地域は学校で、一緒に学ぶ子どもたちが持つ個人的背景を日本人の想像力の外にまで拡大しています。

日本の教育制度は外国の文化を持った子どもたちの教育を前提にしていないですし、私たちの街づくりのコンセプトも異なる文化を前提にして構想するのが困難です。

様々に入り組んだ状況によって問題の種類と数が増えてしまいました。状況ごとに問題を発生するため、単純に類型を見出すことができないばかりか、同時に起こる予想外の出来事の数も増えています。

地域で対応するにも無理が来ています。かつては地域の問題でしたが、今やひとつの地域で対応することは困難です。町内会は機能せず、むしろ地域や時間コンテキストを無視したように行動する地域エゴをむき出しにしだしたように見えます。

建売住宅の購入者が我が物顔で地域の開発に強固に反対し続けて、対立者の損失は意に介さないのであれば、それは単に地域エゴと呼ぶべき主張に成り果てます。実際、近所のあちこちでそのような闘争めいた活動が行われています。

一人一人の活動範囲が拡大した結果だという指摘もあり、文化の発展にともなう副作用として理解する専門家もいます。かつては自分で歩ける範囲で活動していたのが、自動車や鉄道網によって地域性が拡大して問題を複雑化しているというわけです。

確かに隣国では地下鉄の駅構内でさまざまな方言を聞くことができて、同じ言葉と言いながらお互いに通じないほどの違いを感じることができるほどです。

地域性が維持できないことは、活動範囲の拡大によってもたらされたとしても、その結果は予想を越えています。私たちが互いに異なっているのは、言葉の問題だけではないからです。

問題範囲は価値判断や折衝の方法、優先順位などにまで及びます。これらは文化的な考え方そのものですから、当事者同士で解決するのにも時間が必要でしょう。問題は複雑しているのです。

受益者と提供者との関係が複雑になったことも大きな問題の素地になっています。受益者がどの程度の負担をすべきかを問わなければならない事態など、かつての日本で聞かれたことはあるでしょうか。

自然災害や人為事故など様々な局面で受益者と提供者との区別が困難になった事態を見出せるようになりました。負担が問題になるのは少なくとも提供者に余裕がなくなっている状況を示唆しています。

個人に余裕がなければ、何か社会的事業を企てても協力者は増えません。さらに既存の団体動詞での協同が難しいという事態も経験しました。いくつも既存の団体がありながら互いに造反しているのです。このような現象も調停する方法が見出されていません。

状況を見る限り、制度を含む社会に既存の何かに期待するのは難しいでしょう。次世代の中心になる青年たちにこのまま受け渡してもよいものか。社会がほころびたまま、次世代に渡すべきでないのは明らかです。

問題に当たるには、それなりに結集する力と共通した文化が必要でしょう。それが現代の中高年です。私たちが個人負担でできる範囲の小さい活動がギャップを埋める可能性を持ちます。

大きな制度を持つ社会的枠組みから溢れるようにして出てきている小さな問題の数々に対して、小さな問題を扱う小さな集団という対策が有効です。ただ私たちが始めれば良いのです。