中高年だからこそ!ゆとりの若者との応答関係を作り出して始める

現代若者と接するとき、アナログ世代といわれる私達が驚くのは何よりも彼らの言葉とその使い方です。たしかに日本語であることはわかるのですが、場合によっては意味がまったく理解できないという経験をします。

男の子が女の子と親しげに話をします。彼らの言葉の応酬に耳をそばだてると、耳に障る女言葉が頻繁に交わされいるのに気づくでしょう。男の子も女の子も基本的に共感語と呼ばれる言葉を投げあって、お互いを理解しているのです。

そうかと思えば、何かの情報をやりとりする必要に迫られると、彼らはまったく考え出せなくなるようで、言葉がぷっつりと途絶えてしまうのにも遭遇します。

そんな彼らを観察していると、彼らは言葉を使って何かを考えて、整理したり、付け加えたり、変化させたりするのが苦手なのかと思わされます。

どうやって付き合えばよいかわからない。そのような感想を結論にするのでは始末におえないですが、確かにそのまま支援できないのも事実です。

彼らの言葉の問題は、ものごとの関係が言葉に表されずに省略される点にあります。日本語は語順に融通が効きますが、まったく自由であるとはいえません。語順を融通させるために、ものごとの関係を壊さないように工夫が必要です。

彼らの受けた教育は、ともかく表現することを求めるという訓練を中心にしていましたから、言葉同士の関係を緊密に維持する工夫に欠けているともいえるでしょう。

特に敬語の知識が不十分なので、裏に隠れた関係を理解する手がかりが失われています。勿論、ケースバイケースで問題点はスライドして表れてくるのですが、根底にある問題点は共通していて、省略された言葉の関係が理解困難になっていたり、一般的ではなかったりするのです。

特に敬語の問題は深刻です。社会でのトラブルの一端を担っているのもやはり敬語の誤用だとはよく耳にします。とにかく敬語を使っていればいいのだという枠の大きな理解しかなかったりします。

自分の作成した書類を指して「作成された」と言ったりするのは、敬語の誤用で、丁寧語のつもりで敬語を使ってしまっているのです。

しかし、敬語の誤用を事細かに指摘しても、ただ煙たがられて結局、遠のいてしまうだけになるでしょう。敬語は人間関係の距離を表現することを第一の機能とし、距離が表現されているからこそ、「誰が」「誰を」という言葉を省略することができるのだということを、彼らに理解させる必要があります。

そのような言葉の上での距離感は、中高年ともなれば無意識に使えるほど熟達している能力です。もう一度、敬語の使い方を意識して見れば、どのような場合にどのうような言葉遣いをしているかもわかるのが中高年です。

ひとつには、具体的な表現例を示して教示することが有効なようです。特に断りを依頼する際の表現ができていない例がなんどか見られました。学生たちにその例を示しても何が問題なのかすらわからなかったようです。

つまり、悪気がまったくないのでこちらの指摘に意味がわからないといった反応が強く見られました。そこで、例文から取れる意図を明示した上で、改定した文を示して、その上でパターンを提示するようにしました。

悪意がないのですから、表現のパターンを訂正すればいいだけの話です。それ以上の示唆は野暮になるでしょう。そして徐々に社会で通用しているコンテキストとのズレを意識できるように指示する作戦をとり、現在は断り依頼については問題が出なくなりました。

理解してもらえる状態への依存が非常に強い応答から、理解してもらえる努力を明確にする応答へと誘導してやる必要がありそうなのです。