人間だもの!世代が移り変わっても悩みどころはあまり変化しない

ゆとりと呼ばれる世代は生まれた時にはコンピュータが既にあった世代です。彼らに対して、ある種の羨望を感じる人も少なくないと思います。コンピュータなどという難しい機械をなんなく使いこなすように見える彼らは確かに違う世界に生きているようにも見えました。

しかし、冷静になってコンピュータネイティブ世代のメリットとデメリットとを比較検討してみる必要があるでしょう。そうすると彼らに欠けているもの、必要なものが見えてくる。私たち年長者が何を提供できるかも分かるはずです。

彼らの世代のメリットをまとめてしまえば、コンピュータに違和感を持っていないという点に集約されてしまいます。彼らがネイティブユーザーだからといってコンピュータ知識を生得的に持っているのではありません。

コンピュータの専門家に他のメリットを尋ねてみても、大したメリットは見つかりませんでした。操作している様子に違和感が出ていないように観察できるので、私たちは彼らがメリットを享受しているかのように思っているだけではないでしょうか。私たちがうらやましく感じるだけで実はメリットはないのです。

しかし現実は遥かに残酷です。彼らのほとんどはネットを使えば友達はいると主張しますが、その友達に会ったことがないのであって、面識がありません。すべての友人が文通相手であるようなものです。

アメリカに友人がいると言っていた青年の話です。そのアメリカの友人に会ったことがないのはもちろん、友人は日本人で英語も困難だと主張しているのです。表面上は国際的な友人関係に映るだけであって実体のないものなのです。

彼らは遊ぶのも相手に会う必要がありませんでした。子どもの自分から一人でゲームをしているか、ネットに接続して友人と呼ぶ仲間とメッセージを交換しているか。友人との関わりは物理的に制限された小さな窓からやりとりしているだけです。

そのような経験しかなければ、問題が生じないはずがありません。社会は暗黙のルールが複雑に設定されているゲームです。多くの種類の関係があり、関係それぞれにルールが事細かにズレています。ズレが複雑に絡み合って全体としてひとつのゲームを形作っています。

そのような社会に接近する前に経験する子供時代の遊びは社会活動の学習という側面を持っています。砂場の中で、学校の教室や廊下で、家の裏の空地で出会った様々な友人たちが持ち寄った文化のズレとルールのズレから無意識の内に複雑さを習得するはずでした。

一人遊びでは将来の社会活動を準備できません。しかし友達と一緒に遊んだ経験が圧倒的に足りません。それで彼らは、もはやルールを知りすぎて身動きができなくなっています。

徐々に複雑な人間関係のゲームに慣れていけば彼らには大きなチャンスに結びつくはずです。よい感覚に恵まれた若者は確かに簡単なルールのゲームなら飛びつきます。そこに自分たちが必要なものを感じるからでしょう。

対人を意識することが社会性の始まりです。さまざまな反応から自分を判断することが社会的能力のひとつとして発達させなければなりません。だからこそ彼ら自身の企画に大人が参加することに意義が生れます。

彼ら自身が身の丈に見合ったゲームを考えだした時、周囲の年長者としてゲームに参加して、評価してあげるフィードバックをできれば、彼らはそこから十分に学び取れるようになります。

学園祭の企画は毎年、不十分であり、来客に対する想像力が実に貧困です。それでも彼らの中に席を用意させて、私はそこに座って企画の一部を分担して、客への対応を見せています。不十分ながらも、何かが積み上がり、変化しているのも事実なのです。