黙って見てられない!危なっかしい友人をどうやって助ければ?

親の庇護下にある間に十分な準備を整えて、独り立ちできるようになれば、理想的な成長だと言えます。しかし十分な準備のために必要を提供することができないこともあり、青年の成長は早すぎたり遅かったり様々な状態を経験します。

本来であれば、両親を中心にした家族がさまざまな支援を青年たちに提供していたはずですが、現在は核家族化が進んでしまい、両親も自分たちのことで手一杯という状況も当たり前に見られます。

そのような時代だからこそ、多少おせっかいな年長者に登場する舞台に光も当てられるかもしれません。そして家族構成が変化しても友人の間違いを黙ってみていられないというおせっかいな気持ちを強く持つ若者もまたいるのですが、こちらは生まれつきの性質でしょう。

ただ友人を助けようとするのはまじめなで優秀な青年に見られる傾向です。自分のことだけで精一杯のはずですが、周囲の様子にも目配せができているという意味で、余裕を生み出すだけの優秀さをもっており、また友人を見捨てないという思いはまじめさから出ているのでしょう。

まじめな青年だからこそ、年長者の意見を求め、なんとか問題を打開しようとするのであり、年長者としては関わることは難しくありません。

彼の話を聞きますが、何も提示しないように気を付けました。彼は答えのみを求めているかもしれないからです。症状も知らずに薬を服用するような失敗をさせるような危険がそこにはあります。

何度も話を聞いて、質問の応答を重ねて明らかになってきたのは、彼の本当の疑問は友人を助ける方法ではなかったのです。友人を支配することと支援することの違いは何かということでした。

自分のやり方を提示して、相手が自分のやり方から提示されたやり方に変更した時、問題は解決しても彼が支配しているのと同じことになるのではないか。青年には回りくどい疑問もあります。

その時に彼に提供していた方法をそのまま彼に伝えることにしました。つまり答えを提示して助けるのではなく、意見を聞いて質問して考えることを支援する関わり方です。

他人のことに関わりすぎないで、放っておきなさい、というのはひとつの答えであって解決策ですが、それは彼自身の判斷ではない以上、彼を支配することになります。

他人のことに関わらないというのは、大人の知恵ですが、それをそのまま提示するのは、公式を使って出た答えを教えることに似ているでしょう。せめて公式を使って自分で計算させるべきだと思うのです。

私が助けようと主体として関わって助けるのではなく、周辺で立ち止まり、提案を繰り返すことで、助けを必要とする人が自分で方法と出会うならば、助けるのではなく「助かる」結果になるはずです。

助けることと支援することとは主体が誰にあるかが違います。助けるのは援助者に主体がありますが、支援は援助者に主体はありません。何も決定しませんし、自分から行動もしないからです。

もちろん何かの行動を求められれば、それには応じます。しかし、気を回して相手の必要に先んじることをしないようにすることで、助けを求める人が主体にならざるを得ないのです。

年長者である中高年はほとんどの問題に対して妥当する答えを既に持ち合わせています。だからといってその答えを単に提示するのは彼らを支配しようとすることと同義になってしまいます。

彼らは自分の考え方が不十分であることを承知しています。しかし、様々に体験する問題は自分の考え方が通用するのかを確認するための実験場として意味する価値があります。私たち年長者は私たちの実験場ではありません。彼らの実験がうまくいくように支援してあげようではありませんか。