ルール違反に罰則?それより一緒に企画を楽しむ作戦が上手くいく

一対一の交流は避けるのが賢明です。一対一の対応を迫られると交流が未熟な若者たちは大きなストレスを受けて、交流そのものを避けようとするのはよく知られた「葛藤回避」という症状です。

中高年などの年長者が効果的に接した結果としてグループをリードするようになるはずで、そのグループは必ず徐々に育ってきます。そしてある一定の大きさのグループに育つと生じてくる問題が、ルール違反者に対する対処でしょう。

ルール違反そのものはどんな集団にもあります。だからといって無条件に見逃すことはできませんし、その場その場の対応では、リーダの能力が疑われるようになります。

そこで明確なルール化を必要としますが、明確なルール化がルール違反者を作り出すという構造を持っているのは皮肉な仕掛けで、ルール違反は規律を乱し、全体の目的を見失わせるでしょう。

だからといって罰則対応で一律に対応するのでは、ルール違反者の抱える問題を無視する結果になり、これはこれで集団の形成を邪魔する結果を生むでしょう。

一律に対応することで公平性を保つことはできても、個人個人の有り様を器械的に排除してしまい、グループの形成が不可能になっていくという矛盾を抱えているのがルール違反者の扱いなのです。

時間を厳守がまず最初のルールでしょう。このルールを補完するのが連絡するお約束です。この2つのお約束をしっかりと守れるかが交流継続の最低限のルールなのです。

ルール違反の取扱を誤ると交流が断絶してしまう。単純にルール違反を責めることで何の積極的効果も生まれません。以降は交流を立つことでルール違反しないようにする選択をするだけなのです。

若者にとって交流断絶のリスクはないのも同じといえます。彼らにとって交流は無限に、無条件に周囲から与えられるべきものだからなのです。それは勿論、大きな誤りを含んでいます。

それでも何程かの能力が前提できるからこそ、自分は周囲から関わってもらえるし、そうあるべきだという信念が若者の中にあるように感じられます。これもまた共感中心教育の成果なのです。

例えば遅刻する人をどう扱うかと考えなければならないとき、問題は顕著に現れるでしょう。これはしかし、若者同士でも同じことなのです。ここに問題解決のポイントがあります。

時間を守るためのルールを自分たちで決めさせるのです。その時に決定の問題点を年長者が指摘するのです。こうすることによって、自ら取り決めたルールですから、従うより他なくなります。そして若者同士でルールを決めさせると責任感が育つ効果も得られるでしょう。

それでもルール違反が目立ってきた時点で全体会議を招集する必要があります。これはルールの調整を適正に行うためです。こうすることによって硬直化したルール支配を避けることが可能になります。

全体で議論させて、自分たちでルールを決めさせる。そしてそれに年長者が従うという態度によって責任者の取るべき態度を示すことが効果的に示せます。

昔の人は隗より始めよなどと言って、グループのリーダになる秘訣を示しています。確かにリーダが率先しないグループの規範性は比較的低くなってしまうのはよく知られた事実です。

逆にいえば、リードすべき年長者がルールを守れないなら、話になりません。自ら規範を立てて、それに従うことを内規性と言いますが、この能力を発達させるには長い時間が必要で、若者の自主性とは別物です。

年長者たる中高年こそが、十分に内規性を育てることができた人材だということになります。その能力は若者たちが自分で事業を立ち上げて育てるときの必須要件であることは間違いありません。